こんにちは、元日雇い底辺のコウソツ君です。
日雇いで菓子パンを齧りながら、日当6000円程度で底辺を歩んだり
夜の輝かしい世界に飛び込んでみたりと
数々の職場を転々としながら人生に絶望し、それでも普通の生活を目指し今でこそ普通のサラリーマンとなっている私。
まともな会社で働いていると、数々の素晴らしい学歴を持つ人たちや優秀な若者と出くわすことが多くあります。
私はそんな中でもトップクラスの底辺を経験しているわけですから、当然周りの人間より劣っているという自覚があるわけです。
でも本来社会から優秀だと判定されている彼、彼女らにもそれぞれ劣等感や悩みがあるんですよね。
その一つが今回のタイトルにもある
自分は「コミュ障」だから、みたいな話です。
コミュ障だから自分はダメ!?
■コミュ障(こみゅしょう)
コミュ障とは、コミュニケーション障害の略である。実際に定義される障害としてのコミュニケーション障害とは大きく異なり、他人との他愛もない雑談が非常に苦痛であったり、とても苦手な人のことを指して言われる。
■人見知り
従来は子供が知らない人を見て、恥ずかしがったり嫌ったりすることである。大人の場合は「内気」・「照れ屋」・「はにかみ屋」・「恥ずかしがり屋」の言葉をあてるのが標準的である。
などなどいろいろネットでは書かれています。
きっと自分もそうだとか、そんな風に考えている人も多いかもしれません。
でも正直、
だから何?って話です。
コミュ障で悪いん?
どうでもいい。
私はそう思います。
みんなそれを理由にして、何かできない、やりたくない理由づけにこれを利用している人が多い。
そんな世間の付けた病名に悩む必要なんて全くないと私は言いたいだけです。
社交性があってもプレゼンが苦手な人もいるし。
自分ではコミュニケーション力が高いと思っているようでも、周りからしたら「あいつ何なの!?」って嫌われている人もいるし。
因みに私は日雇い時代なんてとても縁がなかった大勢の前で話したり、プレゼンしたりというもの。
今サラリーマンになって初めて経験する事が多いですが、正直大概それなりに何とかなります。
下手すると褒められたり、妬まれることもあったりするほど。
こっちから言わせると、大学でやってきたような人間が初めての自分より出来ない理由が分からないみたいな事も良くあります。
だからと言って、私が色々な経験をしてきて社交性に富んでいるから出来るだけ。
と思ったら大間違いです。
私は基本的に誰とも関わりたくないし、
人と喋るのもめんどくさい、
外にも出たくない。
超引きこもり願望強め体質なんです。
コミュ障は治せる!?
このコミュ障を治す治さないの話って、昔からよく言われています。
私から言わせればこんなものももう時代遅れの昭和論点。
逆に治したいの!?って聞きたい。
どっちでもいいし、正直治す必要すら別にないような気もするんですよ。
今の時代それぞれの個性も認められてきているし、皆が同じ色になる方がおかしいというのが常識。
戦争時代のような国民全員で竹槍を突く授業なんて無いでしょ?
買い物だってネットで完結、チャットで出会いも完結。
勉強もオンライン。
仕事もクラウドで出来る時代。
要らないんですよ、実際。
・彼氏、彼女が欲しいから治したい
・仕事が出来ないから治したい
・なんとなくよくないものだから治したい
とかそんな理由が上がりますが、本当に治したいと思っている人はその時点で既にコミュ障じゃないと私は思うのです。
治したいなら直せばいい。人と話すのは練習が必要
人と話したいなら話せばいいだけ。
簡単です。
でもいきなりは無理とか、緊張したり、どもって上手く話せない事もあるでしょう。
最初はそんなものだし、みんな練習して出来るようになるのです。
練習なしでうまく出来るなんて、滅多にありません。
子供もそう。
ご飯の食べ方、言葉、喋り方、空気の読み方。
全部何回も反復で行動して覚えて、出来るようになっているだけ。
最初から上手く出来なくていいじゃんっていう話。
勉強せずにテストで答え書けます?って話とも一緒。
人より話した回数が少ないから上手く話せなくて当然だし、どう思われようが気にする必要なんてないんです。
周りの人間は未来の話せる貴方の練習台にでもなってもらえばいいんですよ。
つまり治したい人は、恥ずかしい結果になる覚悟で行動すればもうその時点で解決です。
いや、本当。
本当のコミュ障は「治すつもりがない人」
コミュ障とか、アスペルガーとか、自閉症とか。
まあ昔は無かったような単語をどんどん研究者や学者たちが開発していますね。
それは研究して、調べた結果、そのような傾向のある人の事を差して言っているだけです。
昭和の頃から、いや明治、江戸、安土桃山、縄文時代から下手するとあった個性かもしれません。
今だからこそそんな個性に名前がついているだけの話。
だから先ほども言いましたが、コミュ障は会話の練習が少なかったから起こるだけの事で、みんな練習したかどうかで決まります。
治したいと思うなら何でもいいので人と喋っていれば治ります。
ですから本当のコミュ障と言うのは、私のような人間の方がバッチリ当てはまるような気がする。
そう。
別に人と話す事が上手かろうが、社交的だろうが、プレゼンが上手かろうが
飲み会で盛り上げ役になれても。
そもそも一人が好き。
出来るなら誰とも関わりたくないし、興味もない。
自分の三大欲求さえ満たせれば、他人なんて知った事じゃないんだよ。
みたいな感じの人間。
こっちが本当の意味でのコミュ障ともいえる。
と言ってもいわゆる日本の文化風潮に合った道徳観念でモノを考えられない人。
そう、私です。(笑)
私はそりゃ夜の仕事もしてましたから、道端でのナンパ、勧誘もやりました。
相手を口説くためにその人の空気を読んだり、人間性をいち早く理解するよう努力したり、どんな行動をとれば相手の気持ちがどう動くとか考えたり、統計を取ったり。
常に会話後の自分の言葉を反芻して脳内反省会をしたりと。
そんな日々の積み重ねが自分の対人スキルを上げているのだと思います。
でもね、そんなの全部やりたくないんですよ。
人類皆死ねぐらいの気持ちが常にある。
そりゃそう。
日雇いで人間扱いもしてもらえないような環境で生きてたら世界を恨むようになる。
その時の記憶や、思いや、怒りや悲しみ、惨めさを忘れる事は一生無い。
だからこうやって表面上、上手くやっても心の中じゃ人の不幸が何より最高。
最低でしょう?
こんな風になってしまった弱い自分がすごく嫌になります。
こんな感じで拗らせた人が、たぶん本当のコミュ障なんです。
コミュ障に悩む人は心の素直な頑張り屋さん
つまり、今回ここを見ている人は
自分が恐らくコミュ障なのかもしれないと悩んでいる人。
そして、頭の片隅でそれにコンプレックスをわずかにでも感じている人ではないでしょうか?
そんな人に一つ私から言いたいのは、これです。
別に治す必要はないけど、
「自分は別にコミュ障でいいし。。。」
みたいに捻くれてしまうぐらいなら早急に治せ。
という事。
なぜなら、世間で言われるコミュ障は、結局会話の反復練習が多いか少ないかの話で
本当のコミュ障は心が捻くれきってしまった人の事だと思うから。
「折角自分はコミュ障だから治したい」なんて素直で素敵な気持ちがあるのに、それをわざわざ拗らせて人生をつまらなくする必要はないですからね。
逆に自分は既に拗らせてしまったという人は、今度はそれを個性にして自分を貫いていきましょうね。
そんなキャラでそれこそがまた自分のアイデンティティーと言う事になって、人生を前向きに見れるはずです。
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